【レビュー】チェンソーマン レゼ篇を観て抱いた”違和感”の正体を探る

【レビュー】チェンソーマン レゼ篇を観て抱いた”違和感”の正体を探る
  • haruru

※本記事には劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の結末、および漫画『チェンソーマン』第8巻までの内容を含むネタバレが含まれています。

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』は、率直に言って面白かった。完成度の高さに、絶賛したい気持ちだ。

SNSやレビューサイトでも高評価があふれ、戦闘シーンの迫力やレゼの魅力、声優の演技など私も完全に同意できる。

それでも、鑑賞後に違和感が生じた。

面白く、完成度も高い。それなのに、なぜか腑に落ちない感覚が残る。SNSでIFポストを眺めるうちに、その違和感は大きくなっていた。

この記事では、その違和感の正体を探るため、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の感想・レビューを綴っていきたい。

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レゼ篇の良さ

映画は、テレビアニメ最終話のエンディング後、職場へ向かうデンジの場面から始まる。主題歌「IRIS OUT」と絡めたオープニングは、自然に観客を作品世界へと引き込む。

序盤では、マキマさんとのデート後、偶然レゼと出会いカフェへ向かうデンジ。レゼの思わせぶりな対応に心を揺さぶられ、「食事をする」という建前もあって、つい体が勝手にカフェへ向かってしまう。

カフェでの構図や演出は巧みであり、デンジの行動理由が自然に描かれているため、レゼに入り込みやすく、心を揺さぶられる。

日常の延長線としてのクライマックス

中盤では、夜の学校やプールでの場面が展開される。レゼの無邪気さや仕草、笑顔がより印象に残り、デンジが彼女に惹かれる心理描写も綿密だ。祭の花火を背景にキスする瞬間は、恋愛パートとしてのクライマックスとなる。

プールのシーンでは、蜘蛛が蝶を捕える描写など、アニメ独自の演出も印象的。

戦闘シーンの演出

しかし、キス直後に舌を切るという衝撃的な展開により、日常の延長は非日常として破られ、物語はバトルへと急転換する。

戦闘シーンではデンジ、ビーム、レゼのアクションが巧みに絡み合い、台風の悪魔の登場はスケール感を一気に広げ、戦闘に壮大さと緊迫感をもたらしていた。

挿入BGMや無音の演出などバトルでのテンポや音響は非常に効果的だった。

終盤の心理描写とラスト

終盤、戦闘後のレゼとデンジのやり取りは特に印象的だ。

カフェに向かう行動や背景によって、恋心の可能性がほのめかされる。この微妙な揺れがレゼの魅力と物語の完成度を際立たせる。

ラストでは、レゼが仙台へ逃げようとするが、募金で受け取った花を目にし、カフェへ向かう。途中、マキマさんと天使の悪魔に捕まり、結末が描かれる。カフェに向かうシーンをこの作品にしてはなぜ少し長く描写したのかわかるシーンでもある。そしてデンジが花束を持って待つが現れるのはパワー。花を取られそうになり、花を食べるというシーンで映画は幕を閉じる。

レゼの存在感と演技の巧みさ

何より特筆すべきはレゼの魅力だ。この作品を語る上で切っても切り離せない要素であり、それが全てといっても過言ではない。

笑顔や仕草、戦闘での戦い方(指パッチン、爆弾での移動、Bang、Bongなど)、そしてCVである上田麗奈さんの彩り豊かな演技が組み合わさり観る物を自然に引き込む。

正直に言えば、私はレゼのキャラクターデザイン自体には特別惹かれていない。しかし、仕草や表情、動作、台詞のひとつひとつに、心を奪われてしまう。たとえ演技だとしても、その可愛さや存在感は揺るがず、引き込まれてしまうのだ。

そうなれたのは、物語として戦闘シーン直前まではレゼが何を考えているのか、特に心臓を狙っているかどうかを明かさないからだ。そのおかげで、私たちは余計な疑念に邪魔されず、純粋にレゼの巧みな仕草や表情、演技のテクニックの魅力だけを味わえる。

観客すらも泳がせる構造が、彼女の魅力を極限まで浮かび上がらせていたのだ。

違和感の正体

では、なぜここまで完成度の高い映画にも関わらず違和感が残るのか。気づいた点から違和感の正体を探っていきたい。

シーンの省略

最初に気づいた点としてあげられるのは、レゼに関するシーンが必要最低限に留められている点だ。本来あったであろうやりとりやシーンが削られている。

例えば、学校のシーンでレゼがトイレに行った後(デンジ視点)、全身濡れて戻るシーンがあるが、「なぜ濡れたのか」というレゼとデンジの間で確実にあったであろうやりとりが描かれていない。もちろんその後の帰宅シーンも同様だ。

また、祭においてはダイジェストとしてさらっと描かれ、最後の束縛後に沖に流される場面や復活シーンも描かれてない。

レゼらしさ、セリフ不足

そのうえで、セリフ不足も気になった。

私の好きなレゼのセリフとして「助けてくださーい、悪魔に襲われていまーす」がある。この言葉は、まさに彼女の”演技的な可愛さ”を象徴している。

そしてその直後の「ダメみたいだな~そりゃダメか~なら仕方がない 皆殺しコースかな」という本心に近いセリフの組み合わせによって、「レゼらしさ」を掴んでいく。

このような、セリフを通して確立されていく「レゼらしさ」を思い返したとき、レゼのセリフがそもそも足りていないことに気づく。

作品的にはソ連のモルモット的な存在として、自我が十分に描かれていないことも考えられるが、それにしてももう少しレゼのセリフおよびシーンがあってもいいのでは?と思ってしまった。

戦闘シーンの長さ

そして、これらに気づかされる理由として、劇場版ならではの戦闘シーンの長さが挙げられる。

出会い、カフェ、学校、祭と進んだ後に戦闘が始まるとその迫力と疾走感に圧倒されつつも、そこから短時間で締められることにより「もっと日常や関係性を観たかった」と深層心理で思う瞬間がどうしても生まれてしまう。

特に台風の悪魔討伐は、盛り上げ役として非常にうまく機能している一方で、レゼと比べると弱く、物語的に”一区切り”を感じさせる。

結果として、クリア感を強く感じ、観る側の集中は一度落ち着き、再びレゼに焦点が戻った際に、「あれ、セリフやシーンが少ないな」という違和感が強調されて浮かび上がる。

もっとレゼを観たかった

総じて言えるのは、この違和感は作品の完成度の高さと関係している。短時間で日常描写と戦闘の緊張感を詰め込んだため、まさにジェットコースターのような展開で観客を翻弄する。だからこそ、「もっと観たい」「もっと深く知りたい」という欲求が生まれる。

戦闘中心、シーンの省略、セリフ不足、レゼの魅力が引き起こすもったいなさが違和感の正体だった。

一言で言うなら「もっとレゼを観たかった」。

チェンソーマンという作品について

違和感の正体を探るうちに気づいたのは、チェンソーマンという作品において、デンジ以外の登場人物の「内側」が描かれていない点だ。感情や動機は常に行動の背後に隠され、作中では先に心理描写を明示することはない。

例えば、マキマさんは確実に何か腹黒さや策略があると推測できるが、この作品においてその計画的な心理を絶対に先に描かない。

テレビアニメでは物語が連続的に進行するため、各キャラクターの”語られなさ”も次のエピソードで補われていく。しかし、レゼ篇は映画という独立した作品であるため、この”語られない間”が観客に強く意識され、わずかな違和感として残る。

なぜSNSのIFポストに引っかかるのか?

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』誰も知らない、少女の心
劇場版『チェンソーマン レゼ篇』公式サイト

SNSのIFポストを見て違和感が大きくなったのは、レゼの”可愛さ”が必ずしも彼女の本質ではないからだ。

作中で示されるように、あの可愛さは、”人を惹きつけるための演技”の一部である。デンジを惹きつけた笑顔も、仕草も、言葉も、ほとんどが演技の延長だ。

もちろん、デンジに対する恋心がなかったとは思わない。ただ確かなのは、物語の最後までレゼがデンジに対し何を思っていたのかは一切描かれておらず、生い立ちからレゼという名前自体も偽名の可能性が非常に高く、そういった意味で彼女の本質を私たちは知らない。

レゼ篇で描かれるのは可愛いを演じる人間が、ほんの一瞬だけ”その裏側”を見せかける物語である。

だからこそ、SNS上で描かれる「可愛い幸せなレゼ」は彼女の一側面に過ぎず、それだけを切り取ったIF的な物語は、もはやレゼではない。

レゼが可愛いのは事実。

しかし、その可愛さが本質ではないと知った今、レゼの「幸せな日常」という幻想に浸ることはできない。

原作を読んでわかったこと

映画を観てレビューを書き終えたあと、「ここまで書くなら原作も読まないと」と思い、原作を購入して読んでみた。

読んでみると予想以上にテンポが速く、疾走感が凄まじい。映画で私が指摘したシーンの省略や祭のダイジェスト化なども、原作では全く違和感がなく、自然に物語が進んでいった。

また思ったのは、映画におけるレゼは、CV. 上田麗奈さんの演技によって原作以上の深みを感じるキャラクターになっていた。原作と同じ台詞のはずなのに、声の抑揚や間の取り方、声質の可愛さが加わることで、レゼの心情や意図をより深く想像させてしまう。

原作のレゼ篇の範囲

そんな原作レゼ篇の範囲は5巻中盤から6巻まで。

開始:『チェンソーマン』第5巻 39話「きっと泣く」
終了:『チェンソーマン』第6巻 52話「失恋・花・チェンソー」

総評

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』は、改めて非常に完成度の高い作品だ。ストーリーの起承転結・作画・演出・声優の演技・音響など、どれも圧倒的で素晴らしい。

鑑賞後に私が感じた違和感は、作品の疾走感による空白やキャラクターの心理描写の抑制、そして映画ならではの戦闘シーンの長さに由来する。

そもそも、この映画は『チェンソーマン』という物語の途中にすぎない。描かれる内容に空白や伏線、未描写の部分が存在するのは当然であり、観る側に違和感を抱かせること自体が作品としての成功とも言える。

そう考えると、あの違和感も、空白も、すべて物語の延長線上にあるように思えてくる。

つまり、デンジと同じように私も、レゼという存在に心を奪われ、物語が終わったあとも、どこかで終わりきれずにいるのだろう。

追記:公開後PVを見て気づいたCV. 上田麗奈の凄まじさ

追記として、この記事を公開したのは10月12日の22時——そのわずか半日後、公式から公開後PVが発表された。

PVの冒頭は、記事内で好きな台詞として挙げた「助けてくださーい、悪魔に襲われていまーす」から始まる。

再生してすぐに、私は「めちゃくちゃ良い、グッとくる」と思った。もともと上田麗奈さんの演技力は知っていて、劇場で聴いたときも「良いな」と素直に感じていた。ただ、あの時点では原作未読だったため、映画のレゼが私にとっての標準だった。そんな中で原作を読むと想像以上にあっさりしていて「あぁ、上田麗奈さんの演技によって原作以上に深みが出ていたのかも」と薄らながら気づかされた。

そして今日、公開後PVを観て完全に実感した。

上田麗奈さんというCVによって、原作だけなら特別印象に残らない台詞一つ一つでも、レゼらしさを鮮やかに際立たせる要素になっていたことを。

作品情報・引用元