【考察】レゼの正体を解説|なぜデンジを泳がせていたのか

【考察】レゼの正体を解説|なぜデンジを泳がせていたのか

※本記事には映画で描かれた内容のみが含まれています。原作漫画のレゼ篇以降のネタバレはありません。

この記事を書くきっかけは、先日公開した劇場版『チェンソーマン レゼ篇』のレビュー記事の検索クエリだった。

最も多かった検索ワードは「レゼ 正体」。

確かに本作では、レゼの出自や立ち位置は明確に説明されず、観終わったあとに「え、結局レゼって人間?悪魔?」など色々な疑問を抱く時間がないと言ったら嘘になる。

実際に検索してみても、その核心に踏み込んだ考察記事はほとんど見つからない。

そこで本記事では、映画で描かれた情報だけをもとにレゼの正体を中心に、彼女の心情と矛盾を紐解いていく。

【レビュー】チェンソーマン レゼ篇を観て抱いた”違和感”の正体を探る
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岸辺の発言が示す「レゼの正体」

レゼの正体は、映画内で段階的かつ断片的にしか明かされない。

1. 人間としてのレゼ

序盤のレゼは、笑い方も、話し方も、仕草も、完全に少女として描かれる。
公衆電話ボックスでの出会い、カフェでのやりとり、学校、プール、敵との遭遇、祭、とどれも異質ではありつつも、完全な人間として描かれる。

2. 悪魔としての変身

物語中盤、レゼが悪魔に変身し、戦闘で圧倒的な力を見せる。この変化により「彼女は単なる人間ではない」と理解される。

3. 銃の悪魔の仲間

ビームの発言により、レゼは銃の悪魔の仲間でありボムの悪魔であることが明かされる。能力面では悪魔に属するが、人格や序盤の人間らしさはそのままである。

4. モルモットとしての出自

物語終盤、岸辺の台詞によってついにレゼの出自が明かされる。

この情報開示の順序こそが、悪魔なのか、魔人なのか、あるいは実験体なのか混乱する大きな理由である。どれでもあるようで、どれでもない。

劇中でレゼの生い立ちや能力について語られる場面はほとんど存在しない。唯一の手がかりは最終話で岸辺が口にする以下の台詞である。

「ソ連の母親が子供を叱るときにするおとぎ話がある」

「軍の弾薬庫には秘密の部屋があってその部屋は親のいない子供達でぎゅうぎゅうにあふれている」

「そこにいる子供たちに自由はなく外にも出られない」

「物のように扱われ死ぬまで体を実験に使われる」

「ただのおとぎ話のハズだったが…その秘密の部屋は本当にあったと新聞に載ったんだ」

「アメリカのジャーナリストが突き止めて一時期話題になったよ」

「そこにいた子供の写真も当時公開されていたがすぐに聞かなくなったな」

「デンジが引っ掛かったのはその部屋の一人だ」

「ソ連が国家に尽くす為に作った戦士…」

「モルモットと呼ばれる連中だ」

チェンソーマン 6 第52話「失恋・花・チェンソー」より引用

この台詞から読み取れるのは、レゼが国家による人体実験で生み出された存在であり、自由を奪われた子供の一人だったという点だ。

すなわち、レゼは

ソ連による人体実験で作られた人間兵器(=人間に悪魔の能力を付与された存在)」

である。

野茂さんの「どこかで見たことある」の真意

劇中で野茂さんがレゼを見て口にする印象的な台詞。

「あの美女どこかで見たことないか?」

「いや本当に…」

「まさかな……そんなワケないか」

チェンソーマン 6 第45話「爆発日和」より引用

この一見、回収されなかった発言は、岸辺の台詞と照らすと意味が変わってくる。

そこにいた子供の写真も当時公開されていたがすぐに聞かなくなったな

レゼがモルモットの一人であるとしたら、その”写真”を彼が目にしていた可能性は十分にある。野茂さんの発言は、その記憶の断片が無意識に浮かんだものだと考えられる。

なぜデンジを泳がせたのか ― レゼの“演技”と“本心”

レゼの正体を考察するなかで、避けて通れないのが彼女の”演技”と”本心”の問題だ。
なぜなら、物語のなかでレゼは「まだ好意あると思っているの」「あれは演技だった」と自ら語っているからである。

実際、公衆電話ボックスでの出会いや、吐き出した花を受け取って喜ぶ描写、カフェでの表情など、あまりにあざとくできすぎていて、現実離れして見える。

だからこそ「そんなことはありえない」と感じ、「最初から心臓を狙っていた」と思ってしまう。

だが一方で、作品の描写を振り返っていくと、レゼの行動には「任務のための演技」だけでは説明しきれない矛盾や迷いも浮かび上がる。

彼女は本当にすべてを計算していたのか。それとも、いつしか”本心”が芽生えていたのか。

事実関係から「振られて諦めた」可能性

というのも、冷静に振り返ってみると祭のクライマックスに舌を切るシーンが訪れるまで、レゼがデンジの心臓を狙っていたかどうかはその時点まで一切描かれていない。確認できるのは、デンジに向けた「好意」だけだ。

したがって、レゼ篇に描かれた事実関係だけを見ると、振られて諦めたとも捉えられる。

レゼの行動を辿る

見方としてはこうだ。

「銃の悪魔の仲間であり、ソ連の戦士でもあるレゼは、デンジの心臓を狙わなければならない。出会った当初から迷いながらも、カフェでのやり取りなどを通じてデンジへの好意が生まれ「どうしよう」と考え、一緒に逃げる方向へ進む。しかし、学校で思いもよらず敵に遭遇し、祭で告白するも事実上振られ、感情が爆発して攻撃的になり、最終的に諦めるが……」

戦闘中、レゼがマキマの存在に気づき「なら一緒に逃げても無駄だったか」と呟く場面は、まさにそれを裏付けている。

この視点で見れば、デンジとレゼの”もしも”の物語(IFストーリー)に違和感はない。

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まとめ

Q. レゼは悪魔なのか? → A. 「悪魔の力を与えられた人間」として理解するのが自然

Q. 野茂さんの発言は回収された? → A. 岸辺の台詞を踏まえれば、間接的に回収されたと考えられる

レゼは、
ボムの悪魔であり、
ソ連の人体実験で生まれた兵器であり
そして、デンジに恋をしたかもしれない少女でもあった。

だが、そのどれもが彼女の”正体”そのものではない。

彼女の本当の姿とは、語られなかった人間としての部分にある。

デンジと過ごしたあの時間の中で見せた笑顔や仕草。
それがどこまで演技で、どこまで本心だったのかは、誰にもわからない。

だからこそ、レゼは「わからなさ」の中に生き続ける。
その曖昧さこそが、彼女が最も人間らしい瞬間であり、観客が彼女に惹かれる理由なのだ。

作品情報・引用元